たまには日記らしく

週末から急に蝉の死骸を見かける事が多くなってきた。そう言えば今年はあまり蝉の声を意識しなかったような気がする。夏が終わるのは例年の事だがさびしい限りだ。
さて、もうすぐ終戦記念日である。
毎年思うのだが、この「終戦記念日」のネーミングが気に入らない。どこか他人事のような響きを感じてしまう。「ごく一部の人間がはじめた戦争で苦しんだけどようやく終わって良かったね」的などこか被害者意識が見え隠れするから。
日本国が始めた戦争が敗戦という最悪の形で終結した日だと言う事をちゃんと認識すべきで、どうして戦争を始めたのか、何故負けたのかをちゃんと考えるべきだと思う。それが歴史に学ぶと言う事だと思うのだが、現代史を異常なまでに軽視/避ける日本の社会科教育では仕方ないのだろうか?


学校教育における生徒一人一人への生活指導の限界点がどこにあるかを考えさせてくれる高校野球が今年も始まった。
最近では高野連は全体責任などの連座制には拘っておらず、子供たちの喫煙程度で出場辞退は必要ないそうだ。ただしこれには条件があり、事実の報告と適切な処分が必須らしい。条件と言えるほどの条件では無いですね。
振り返って今年の明徳義塾高校のケース。すでに甲子園での練習も行われていたにもかかわらず匿名の投書で事実が発覚。土壇場での出場辞退となった。
お笑い種である。高野連は出場辞退などは認めず、きっぱりと出場停止にするべきでだと思うのだがいかに?
不祥事を監督自らが隠蔽し、当事者である子供たちも何食わぬ顔で地方予選に参加していたのだから、今更辞退で済ますその感覚が理解できない。
不祥事の内容も喫煙と上級生による下級生への恒常的な暴力*1で、後者は内容的に野球部だけの問題では無いと思う。
一方でまじめに努力してきた子供たちが可哀想とのだとの意見もある。まさしくその通りだが、これは辞退した明徳義塾高校と其れを受け入れた高野連の責任である。なぜならば、上述した通り高野連から出場停止の処分が出たのであれば、問題生徒の放校処分,野球部管理責任者(校長、部長、監督)の懲戒免職,高知県野球連盟関係責任者の引責辞任,関係各所(OB会会長、後援会会長)の謝罪など可哀想な子供たちのために並べられるだけの首をすべて並べて高野連に出場停止の撤回を求めることが出来たのである。そうすれば可哀想な子供たちは甲子園に出場できたかもしれない。が、明徳義塾高校は自ら出場辞退という道を選んだ。辞退を決定した人たちは可哀想な子供たちの思いよりも、関係者の立場や面子、そして退職金を選んだのだろう。辞退を受け入れた高野連も同罪である。
しかしこの監督の「何とか丸く収めようとした」「お前たちを守ろうとした」なんて発言を聞くと、更正などまったく期待できません。
喫煙に関しても、生徒たちが名乗り出たのを受けて「更正の見込みが有ると思った」そうです。再犯の可能性が無いから隠蔽したと言う事ですか(嘲 更正の見込みが無かったら報告したかどうか・・・どうでしょうね。
暴力事件に関しては、被害者宅を訪れた馬淵監督と野球部副部長が「なんとかこらえてください」と頭を下げ、「相手が許してくれないなら、その時点で出場辞退も考えた」そうです。はっきり言って脅迫ですね。
これで教育の一環をうたうのであれば、彼らはいったい何を教育したいのでしょうか?
それと付け加えると、投書した人間を責める発言をする人がいます。例えそう思っても口に出さないのが常識だと思うのだが、そんな考えが出来ること自体が常識を求めても仕方ない人間の証明かもしれません。
最後にこの事件。「不祥事による出場辞退」ではなく、「不祥事の掩蔽に失敗して出場辞退」です。ここ重要だと思います。

*1:この件でこの下級生は転校している。